タミヤRCカーグランプリの興奮を今
スネ夫に憧れた男子は少なくないだろう。
僕はスネ夫に憧れていた。
というか、羨ましく思っていた。
なぜなら、スネ夫はラジコンをたくさん買ってもらっていたからだ。
毎回ジャイアンに壊されてしまうのに、都度新しいラジコンが導入される。
16ビット機のスーパーファミコンのソフトは、容量にして6メガバイト。
今ならスマホで1秒ほどでダウンロード完了してしまうデータ量のゲームソフトが、9,800円した平成初期。
ラジコンは大人のヲタクの高貴な趣味だった。
イトーヨーカドーのおもちゃコーナーで買ってもらった初めてのラジコンは、右折と直進しかできない代物だった。
コントローラーに単3電池を4本入れて、車体を接続して急速充電。走行時間は1分ほどだった。
あるいは針金のような長いアンテナをぴょんぴょんさせながら10mも離れれば止まってしまうレベルのものが多かった。
それより前の時代は、コントローラーが有線で繋がっていて、クルマと一緒に人間が走らなければならなかった。
そんなものは最早ラジコンではない。
ダッシュ四駆郎もミニ四駆と一緒に走り回っていた時代。
僕もミニ四駆と一緒にダッシュしていたが、ハイパーダッシュモーターに改造したら僕の脚力を上回り、追いつけなくて壁に衝突して大破した。
ラジコンが欲しい…
そんな時代に生まれ落ちてしまった僕だったが、諦めなかった。
日曜の朝7時から放映されていた『タミヤRCカーグランプリ』に熱狂し、本屋さんでラジコン雑誌を読み漁って情報を仕入れた。
少年野球をやっていた僕の日曜日は忙しい。
タミヤRCカーグランプリを見たら、ごはんを食べて、「靴下どこー!?」と慌ててユニフォームに着替えて、『まじかる★タルるートくん』のオープニングだけ見て家を飛び出す。
「いつか、まじかる★タルるートくんを見てやるんだ!あれはすっごくエッチぃぞ。」と鼻息を荒くしながら、ZETTの金属バットを蹴っ飛ばしながら、ダッシュで少年野球に通っていた。
そんなラジコンに憧れを抱いていた少年時代の僕だったが、そんなことはポッカリ忘れて、高校1年ですっかりバイクにハマっていた。
自分で交換したプラグ1本で、エンジンの吹け上がりが素晴らしくなる体験は、僕が今バイクを仕事にしている原点だ。
うっかりそのままオートバイ業界で働くようになった僕だったが、ラジコンのことなんか、ガッポリ忘れていた。
とある日、「ラジコンやってみない?面白いよ。」という上司から、悪魔のお誘いが。
その人は、二輪業界にいるのに大型免許を持っていなく、NSR250をカリカリにチューンしてミニサーキットでブイブイ言わせている、人間的に小さいオッサンだった。
乗ったこともない大型バイクのお客さんに、「もっとこうした方が速く走れる」と講釈を垂れていた。
お前、乗ったことないのに。
でも、僕はそんなことはどうでもよかった。
忘れていたラジコンへの羨望を思い出したのだ。
モンハンでは叱咤してくる上司も、ラジコンなら勝てるかもしれない。
なぜなら僕は、幼少期からタミヤRCカーグランプリを欠かさず見ていたエリートだからだ。
上司は僕だけでなく、二輪整備士の同僚にも声を掛けていた。
僕らは一緒にラジコンを始めることにした。
営業の僕と、整備士の同僚。
とりあえず僕はカッコから入る。
ボディはマジョーラで塗装して、初音ミクのデカールを仕入れた。
塗料とデカールだけで1万円が飛んでいった。
車体はノーマルのままだ。
さらに、1台目の出来がイマイチだったので、ボディを2台追加で買ってきた。
2台目はシルビアをチャンプロード風のヤン車に。
3台目はオートバックスのガライアを正統派のGTカー風に制作した。
車体はノーマルのままだ。
というか、シャーシは1台分しかない。
ボディが3台できあがってしまった…。
これではラジコンではなく、モデルカーだ。
とりあえず、上司に「僕、シルビアのヤン車作ったんで、パトカー作ってくれませんか?それで、サーキットでニードフォースピードごっこしましょうよ。」と伝えた。
ラジコンヲタクの上司は、鼻の穴を広げて盛り上がり、LEDパトランプを装着した神奈川県警の高速機動隊仕様の34GTRを制作。
シェイクダウンはまさかのヤン車とパトカーのバトルとなった。
乞うご期待。
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