【暇と退屈の倫理学】僕たちはなぜ、何もない時間に耐えられないのか?

遊動民 暇と退屈の倫理学 お堅い話

【暇と退屈の倫理学】僕たちはなぜ、何もない時間に耐えられないのか?

お世話になっております。

ピッコロモータース工場長☆プロ道楽師のまるこフランキーです。

なう、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本を読んでまして。

なんとも厄介で、刺さる一冊なのよ。

そして、読書中に、幾度となく著者と同様の感想を抱いたって話。

僕がいう『道楽』って、退屈からの逃げではなくて、能動的な暇の活かし方なんじゃないか、って。

哲学者バートランド・ラッセルはこう言いました。

人はもっと働かなくていい。その分、余った時間を自分のために使うべきだ。

ラッセルは本気で「1日4時間労働でいい」と主張していた人です。「余った時間でこそ、人間は人間らしく生きられる」──つまり、暇は可能性だという考え方。

僕はこれ、めちゃくちゃ好きですね。

とはいえ、暇って案外しんどいんですよね。

なにも予定がない日。スマホも見飽きた。出かけるほどの気力もないけど、家でゴロゴロしてる罪悪感。──これがいわゆる「退屈」です。

『暇と退屈の倫理学』では、これを「欲望が宙づりになった状態」と表現していました。なるほど、と思いましてん。

ウサギ狩りに行く人に、ウサギを与えても「え、いらない」という矛盾がありますよね。どういうことかと言うと、「欲望の対象と、欲望の原因は違う」という状態。

何かしたい。でも、何をしたいのかわからない。そのモヤモヤに、僕たちは耐えられなくなってる。

そんな日、僕は文房具店に行きますね。

欲しい万年筆があるわけでもない。

注文していたブツが届いたわけでもない。

新製品が入荷する予定もない。

ただ、筆記具を眺めたり、紙を触ってみたり、インクの色と名前に思いを馳せたりしてみる。

でも、この時間は退屈では、ない。

なぜか。

それが『僕と世界の関係を回復する時間』だから。

退屈は「やることがない」ことではなく、やりたい理由がないこと。

ウサギ狩りをする理由がわからん状態。

人は、暇になると不安になりますね。

やることがない=自分の価値が薄れる気がする。

何もしてない=誰からも必要とされてない気がする。

だから多くの人は、SNSや動画を見て、通知を追って、とにかく予定を埋めようとする。

でも、ラッセルや國分さんが言うように、本当は「暇そのもの」こそが、自分と世界をつなぎ直すチャンスなんだと思うんです。

道楽とは、暇の倫理である。

道具をいじる。手帳を書く。本を読む。

それって、「ただの趣味でしょ?」って言われたら、まぁそうかもしれない。

でも僕にとっては、それこそが『能動的な暇』の使い方なんです。

誰のためでもなく、自分の中の欲望をひとつずつ拾い上げていく作業。

それが道楽であり、僕にとっての「哲学」なのかもしれません。

旅が楽しい理由も、よく「非日常だから」とか「リフレッシュできるから」とか言うけど、じゃあ、なんで“日常”ってそんなに退屈なん?って話にもなるわけ。

普段の生活は、安全で便利で、慣れ親しんだ空間に囲まれてる。でも、気がつくと「暇だな〜」「なんかつまんないな〜」ってなるでしょ?

一方で、旅に出ると、見知らぬ土地、初めての食べ物、不慣れな言葉や人に囲まれて、ドキドキしたり、ワクワクしたり、失敗したって笑えたりする。

これってつまり、「移動=刺激」「定住=退屈」って構図があるってことじゃないかな。

狩猟採集民はヒマじゃなかった

國分功一郎さん著『暇と退屈の倫理学』って本の中に出てくる話がめっちゃ面白い。

昔の人、つまり遊動民(狩猟採集とかしてた人たち)って、常に移動しながら生活してたから、「退屈してる暇がなかった」らしい。そりゃそうだ

だって、次にどこに獲物がいるか、どこに水があるか、どんな天候になるか、毎回違う環境に適応しながら生きる必要があったからね。

五感フル稼働で生きてるんよね。

つまり、「生きる=刺激」だったわけで、退屈なんて、してる暇がない。

定住して文明化したから退屈が生まれた?

人類が農耕を始めて、定住生活に入ると、「ルーティン」ってものができる。

畑を耕す→収穫する→保存する→来年また耕す…

毎年ほぼ同じサイクルを繰り返すようになる。便利になった反面、変化が少ない。

すると、心のどこかで「刺激が足りないなぁ」「なんか物足りないなぁ」って感じるようになる。

これが、“退屈”の始まり。

つまり、旅が楽しいのは、「退屈な定住生活の裏返し」だからなんだと思うんだよね。

旅先で感じる「自分の感覚が目覚める」感じ

慣れない電車に乗る。
地名の漢字が読めない。
トイレを探す。

ぜーんぶ、めんどくさい。

でも、その「めんどくささ」によって、普段は眠ってる感覚が呼び起こされていくのがわかる。

旅ってのは、心だけじゃなく、身体にも新しい刺激を与えてくれる「覚醒」であって、人間本来の機能を活かせる道楽なのかもしれない。

刺激を求めて、旅に出ることは悪いことじゃない

「刺激ばっかり追い求めるのはよくない」とか、「もっと日常を大切にしよう」とか言われがちだけど、うるせーわ。

退屈を感じるってことは、それだけ環境が安定している証拠で、ありがたいことではあるんだけど…旅が楽しいのは、人間がもともと「刺激の中で生きてた」生き物だからだと思う。

「あー、刺激が足りない」って感覚は、もっと「五感を使え」っていう本能からのサインでもあると思うんよね。

旅のない日々も、旅のように。

とはいえ、いつも旅ばかりしてられないのが現実。

仕事もあるし、家族もいるし、そこまで金もないし。うん、ない。

だから僕は、日常の中で「ちっちゃい旅」を作るようにしてる。

・通勤路を変えてみる
・知らないスーパーに行ってみる
・普段絶対買わない雑誌を読んでみる
・知らない建造物を大辞林で引いてみる

要するに、「慣れた生活に、ちょっとだけ違和感を入れてみる」これだけで、脳みそが「旅モード」に切り替わるんよね。


というわけで、今日はここまで。

旅が楽しいのは、当たり前なんかじゃなくて、僕たちの根っこの「生き物としての感覚」が求めてる刺激なんだよ、って話でした。

今日、暇なあなたへ。もし、なにも予定がない日があったら。

スマホじゃなくて、自分に向き合える道具をひとつだけ持って。

ペンと紙でいい。

釣り竿、バイクでもいい。

そこに自分の「欲望の種」みたいなものが、きっと落ちてるから。

暇は悪じゃない。

それは、あなたがどこに向かうかを問う余白。

まるこフランキー(プロ道楽師)──退屈と遊ぶ男、でした。

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